昭和五十三年七月二十一日朝の御理解


 御理解第四十五節
 世に三宝様踏むな,三宝様踏むと目が潰れると云うが。三宝様は実る程かがむ、人間は身代が出来たり先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れる。神信心して身に徳がつく程かがんで通れ。  とかく出る釘は打たれるよく頭を打つと云うが、天で頭を打つのが一番恐ろしい、天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振上げたりすることは無いが油断をすな、慢心が出るとお陰を取りはずすぞ。


「慢心が出るとお陰を取りはずす」お陰をどうでも頂きたい。慢心が出る程のお陰も頂きたい。それで尚、お陰を取りはずす事の無い信心をいよいよ身につけて行かねばならんという事でございます。慢心が出る程しのお陰、慢心が出ると云うのではない、本当に慢心が出ようとする。
 もう私くしも自信がついたと云った様な事は、やっぱり慢心の一歩手前という所じゃないでしょうかね。「慢心と安心とは紙一重」と云われるのはそうです。だから神様のお陰を頂かねば、神様のお陰を頂いておるから、このお陰であるという実感がいよいよその募ってくる。
 いよいよ強うなって来るお陰。どんなに健康、なら健康に自信を持っておる人でもそれが自信では危ない。
 富永先生が大病をなさる前の月に、月末の御礼に出てみえてから、丁度夕食を一緒に頂かせてもらって。親先生「私くしは健康の事だけには自信がつきました。」「富永先生その自信が危ないばい、ね。」そん時は何やら分らなかったけれども、本当に、又元に戻ったかの様な病気をなさって。一月間、云うなら大修行をなさった。この頃壮年信徒大会の時に話しておられましたですね。
 本当に神様の、自分の体は人の体と違う、もう自分の体は神様のお陰を頂かねば立ち行かん、というのが一人一人がその感じじゃなからにゃいけん。
 私くしは、まあだ風邪一つひいた事はない、寝た事もないというような人でもです、私くしの体は神様のお陰を頂いとるからこんなにあるんだと、神様のお陰を頂かねば。云うなら、私くしの体は何時又がたがた元に戻るか分らん。
 これは、大病から大病したり、又は健康である人の思い方考え方はそこでのちひいとる。神様のお陰を頂かねば、健康維持は出来ない。その為の健康管理。それを合楽理念を持ってする他なし、というふうに頂ける様になったら有難いです。健康でも商売やら海外布教やらが合楽理念じゃあない。健康管理もやはり合楽理念をもってする他はないと云う事になるです、ね。
 自信が危ない。神様のお陰を頂かねば立ち行かん、という思いがいよいよ出来て来るという事は、云うならば人間の実相というか。実際は、我は力もない無力の者である。障子一つがまま成らぬ人の身である、という事が分って来るからなんですよね。
 そこで、と云うて私共もですね、それこそ人から先生と云われる様に、又は、人から人間は身代が出来たり先生と云われる様に成ると、という人が羨ましがる位の身代も頂きたい、ね。
 だから、このお陰は云うならば、合楽理念を持ってするならば絶対なのですから、受けた時の、云うならばお陰を、又元に返してしもうたり落としてしまう様な事の無い、信心をしっかり身につけておかんといけんです。神様はそこん所を見越して、人間の脆さ、ね。人間の我が侭な心と云うのがです、神様が見通して、もう金輪際我が侭が出るような事のない。
 お陰を落とさんですむ修行を、信心を、そういうお陰の頂けれる。いうなら身代もでける。人から先生とも云われる、旦那様とも云われる程しのお陰を頂いて、お陰を落とさん為の信心が、一番始めにある。
 「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目が潰れる。」云うなら肉眼をおいて心眼を開いとかんと、人間はもうこれだけ自信が出来たという事になるのです。
 昨日、ある大変な難儀な所を通ってある人の事をお願いさして頂とりましたそしたら、誰かがネクタイをこうやって締めてやりよる所が、こうネクタイの前の方が上と下とが揃はにゃいけませんよね。出る所、がそれが前短く結んである、だからこれを揃えて又結び直し、結び直しして、丁度良くなった、それでその結んだのをきゅっと首に締め上げて行く所を頂いたんです。
 そしてから、神様から『締め殺しはせんと』頂いたんです、ね。どんなに、今難儀な所を通っておりましてでもです、もうこりゃあ、これは昔の先生方がよくおしゃっております。信者が難儀の為に、一生懸命おすがりしておる時はもう心配は無いとこうおしゃるけれども、お陰を頂いて、それこそ自信が出来たと云うような事に成った時が危いと、おっしゃった神様か、神様に一心におすがりして、どんな難儀苦労を通っておっても氏子が、一生懸命神様に向こうて来る時なら、危なげないと、かえってこれで締め殺されるとじゃないだろうかという。
 云うならば、難儀な所を通ったり結んだ所を、結び直し、又結び直し、本当の結びが出来るまで、何回も繰り返しこう結んで。しかもぎゅっとこう締める時に、首を、あれは締め上げるのじゃない、きちっとなる事の為に締め上げられる。それでこう締め殺すのじゃあない、締め殺しはせんと。
 そこで私くしは思うのですけれども、「三宝様踏むな、三宝様踏むと目が潰れる」と云われる、その三宝様にも等しい、云うなら宝の元である、お徳の元であると云うようなお陰を頂いておる時、ね。大事にしなければいけないと云う事。もう苦しい、苦しいでおすがりして、ようやくお陰を頂いた。成る程お陰を頂きましたけれども、徳にも力にも成っていない。
 その苦しい時に、いわば力を受けるお徳を受ける事の為に、合楽理念は説いてあるというても良いのです。
 だから難儀というかそれを修行しなければならないと云う事を、今日は聞いて頂きたいんです。分って頂きたいんです。苦しい、時やっとかっと、おすがりしてお陰を頂いたって、お陰を頂いただけでしょう、ね。
 もうそれこそ医者が見放すような病気をした。苦しまぎれに一生懸命お願いした、お陰を頂いただけでしょう。けれどもその苦しい時にです、神様有難し、神愛勿体なし、と頂ける手立てが合楽理念には説いてあるです。ただ苦しい所を助けて下さい、で助かっただけではお陰を頂いたというだけです、ね。
 云うならば、三宝様踏むなという事はね。その徳の元になる程しの物を、三宝様という、そういうお陰だけで終わってお徳を受けなかったら。いうなら、合楽理念をもって修行したという事にはならんのです、ね。
 生き締められておる時に、自分だけこんなに難儀しなければならんのだろうかと思うたら、神様に不足云っておるのと同じ事です。けれども、心の根をもってすると力を与えたい。いや、お陰を頂くだろうその頂いたお陰を、又、落とさんですむ力を今こそ頂いておけよという。
 いうならば、神様の神意であり神願であるということが、解らなきゃあならん、おたがいがです、苦しければ一生懸命お願いをして助けて頂いたというだけで終わったんでは、合楽理念をもって修行したと云う事にはならんです。
 合楽理念をもってその難儀に取り組んだ。合楽理念をもって修行させて頂いた時に、お陰じゃあないもうお徳が、力が、受けられる。そのお徳に力に勿論力はついてくる。
 難しいごとあるけれども教えをいよいよ頂いて、自分の心の芽がだんだん開けて来るとです。
 憎うて叩く親はいない。それを、自分を憎うて叩くかのように思い違いをする。叩かれるその手にすがって、お礼の云えれる信心。今こそ生き締められておる時だと。そこの頂きかたがです、合楽理念によるとそういう頂きかたが出来る様になるのです、ね。
 だから修行も又、合楽理念をもってしなければお陰になる、お徳になる、その分かれ道の所でです、いわゆるただお陰を頂いただけで終わるのではつまらん。そういうお陰ではです「喉もと通れば厚さを忘れず」という事に必ずなるです。
 いわゆるお陰を取り外すぞ、慢心が出るんです。だから頂いたお陰を取り外す事のない為に、力を受けておかねばならない、お徳を受けておかねばならない、ね。
 それには、今こそ生き締められておるんだと、どんな難儀、はあ、又今日もこげな修行せんならんと云うだけではです、ね。ただ修行してお陰を頂いたというだけです、ね。 今日も又、神様がねいよいよ力を受けてくれよという、神愛の中に、神願の中に、神願に応えれる修行をさせて頂く、ね。いうならば締めくくらせて頂いた時に、今日も結構な修行させて頂いて有難しという、お礼が云えれるような修行なからにゃならん。合楽理念は、そこを徹底して説くんです、ね。
 「三宝様踏むと目が潰れる」云うならば、お徳の元になるようなお陰を今頂いておるのに、ただそこの所から早くま脱がれたい、ま脱がれたい思うて楽をしようと、早く楽に成りたい、という様な考え方では、お陰をもし頂いても、楽に成ってもお陰を又落とすような結果になってくる。生き締められておるという時間が長い程、ね。
 そこん所を神愛有難し、神願有難し、という頂き方をもってするならば、ね。どんなお陰を頂いても落とす事のないような信心が底深くなってくる。お徳を受けるという生き方。お陰を受けるという生き方。そのどちらを取らせて頂くか。
 合楽理念は、その徳を受ける事の、力を受ける事の為に、合楽理念はあるというてもいいのです。神様はね、一心におすがりすればいかにもネクタイでこう締め殺されるような感じですけれども、私くし共が一心に神様にすがっておる時には絶対そうじゃない、きちっとしたネクタイを締めさせたいばっかり、そういうものが自分の心情になってしまうときに、お徳を受けるきちっとした信心が出来ると云う事になるのです。
 早ようこの難儀の中から助けて下さい、助けて下さいというてこの難儀な時にです、神様のお心が分らしてもろうて、ね。「落ぶれて袖に涙のかかる時人の心の奥ぞ知られる。」こういう生き方ではお陰にならん。「落ぶれて袖に涙のかかるとき神の心の奥ぞ知られる。」というように、そいう時にいよいよ神様の心の奥深く分らせて頂くお陰が頂けた時に始めてそれが力になる徳になる、ね。
 徳、力が伴うてのお陰ならば、先ずはお陰を落とすような事のない、慢心が出るような事はない。神様のお陰を頂かねば自分の家は立ち行かんのだ、神様のお陰を私の体は立ち行かんのだとね。
 それが健康に成ったり少し金が出来たりすると、もう自分は金儲けの自信が出来たごと思う。もう自分の体だけにゃあ自信が持てますという様な事になる。そこに又、お陰落とさんならんという元がある。
 「慢心が出るとお陰を取り外すぞ」と最後にある、だから、云うならば、どんなにお陰を頂いても、お陰を頂いても。お陰をいよいよお陰としていけれる事の為に、落とすことのないお陰の為に。今生き締められておる。それを、神愛、神願としてすっきり頂けれる稽古をしなければならん。という事になります。
                        どうぞ